矢ケ﨑 琢磨

矢ケ﨑 琢磨

特任助教


E-mail  pyv96kbo(at)okayama-u.ac.jp
  

略歴

2000年3月 名古屋大学理学部化学科 退学(飛び級)
2002年3月 名古屋大学大学院理学研究科  修士課程修了
2005年3月 名古屋大学大学院理学研究科  博士課程修了  博士(理学)
2005年4月 名古屋大学大学院理学研究科  学振特別研究員
2006年4月 分子科学研究所  博士研究員
2012年4月 岡山大学大学院自然科学研究科  助教(特任)
2016年4月 岡山大学異分野基礎科学研究所  講師(特任)
    

研究について

    物理化学の対象とする現象の多くは、互いに相互作用する多数の粒子によって引き起こされています。多数の粒子が関わる現象は、本質的に複雑になります。例として、水に塩が溶ける、という現象を考えてみましょう。このような身近な現象についても、

  ・水同士、水とイオン、イオン同士の相互作用の強さや方向性

  ・塩の解離に伴う電子状態の変化

  ・解離反応により生じた熱の水中への散逸

  ・イオン-水相互作用と熱揺らぎのバランスで決まる水和構造

  ・クーロン引力によりイオンが水を束縛することによるエントロピーの減少

  ・イオンによる水の水素結合ネットワークの破壊とそれによるエントロピーの増加

  ・イオンの存在や解離熱による水の運動の変化

  ・これらに対する温度や圧力の影響

などといった、非常に多くの要素が絡み合っています。これらの要素は互いに何らかの関係性を持っています。私は、多体系におけるこのような様々な要素の間の因果、相関、階層構造などの関係性を解き明かすことが、化学現象の複雑性の理解に繋がると考えて研究を行っています。

  

研究方法

    多数の分子を扱う計算化学の強力な手法の一つが分子動力学(MD)法です。この方法では、個々の粒子の間に働く力を計算し、ニュートン方程式を解くことで、多体系の時間発展を再現します。MDは非常にシンプルな方法であり、それゆえに多様な利用法と拡張性があります。通常のMDは古典的な枠組みで行われますが、電子や核の量子性を取り入れることも可能です。また、MDの結果から、様々な動的、静的な物性を求めることができます。このMDの多様性を活かして、上述のようにいろいろな要素が絡み合う化学現象を、多面的に捉えることが私の研究の特色です。誘起多極子や電荷移動などをあらわに取り扱うことができるQM/MM法、熱力学的積分やアンブレラ法などを用いた自由エネルギー計算、量子統計力学に基づいた非線形応答関数による緩和現象の解析、相転移の様相を明らかにするための構造解析やクラスター解析など、いろいろな計算手法を組み合わせて研究を進めています。

 

水の構造と運動

    化学の実験技術は日々進歩しています。昨今では、X線や走査型トンネル顕微鏡を使うことで、個々の原子を区別することも可能になっています。しかしながらこれは、基本的には固体に限った話です。液体の中では、多くの粒子が乱雑に配置しており、それぞれの分子がピコ秒程度の時間スケールで動き回っています。このように素早く動く分子の一つ一つを区別して測定することはできません。パルスレーザーなどを使えば、フェムト秒の現象を測定することも可能ですが、得られるのは多数の粒子の平均的な挙動だけです。MDシミュレーションの強みが最大限に生かされるのが、このような系だと考えています。液体の中で、個々の分子がどのような構造をとっているのか、それが、エントロピーなどの熱力学量や、エネルギー緩和などの動的な現象にどのように反映されているかに興味を持って研究を進めています。特に、開いた四面体構造と強い分子間力のために、イオンによる液体構造の破壊 [ T. Yagasaki, K. Iwahashi, S. Saito and I. Ohmine, J. Chem. Phys. 122, 144504 (2005) ]、非常に速いエネルギー緩和 [ T. Yagasaki and S. Saito, J. Chem. Phys. 134, 184503 (2011) ]、液-液相分離 [ T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, Phys. Rev. E 89, 020301(R) (2014) ]など、様々な面白い振る舞いを示す水を重点的に調べています。 

    

非平衡過程

    私は応答、緩和、相転移などの非平衡過程のシミュレーションを多く行っています。理由の第一は、それらが化学として重要な過程であるためです。応答や緩和は分光実験などで測定され、化学反応や生体分子の機能発現と密接に関係しています。結晶化や融解などの相転移は生活に密着した現象ですが、同時に産業の様々な現場における重要な過程でもあります。二つ目の理由は、実験で測定困難な非平衡現象が多いということです。例えば、液体からの結晶の均一核生成において、個々の分子の動きを実験的に追跡することは不可能ですが、シミュレーションならばそれが容易に行えます。三つ目は、そもそもシミュレーションとして面白いためです。エネルギーが流れる様子や、構造が劇的に変化する様相を解析するのは、とても楽しいものです。 

    線形応答理論が示すように、非平衡な応答過程と平衡揺らぎの間には、密接な関係があります [ T. Yagasaki and S. Saito, Annl. Rev. Phys. Chem. 64, 55 (2013) ]。また、結晶成長などの相転移の速度も、平衡状態の熱力学的な物性に強く依存します T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, J. Phys. Chem. C 120, 3305 (2016) ]。非平衡過程を理解するためには、自由エネルギー計算や相関関数など、平衡状態の解析も不可欠です。また、近年、並列計算技術が発展し、従来よりも圧倒的に大きな系の計算が可能になっています。このような現実に近い系のシミュレーションでは、異なる非平衡過程同士の相関が現れることがあります。J. Phys. Chem. B 118, 1900 (2014) では、京コンピュータを用いて大規模計算を行い、水中のメタンハイドレートの分解という非平衡過程の速度が、メタンの泡生成という異なる非平衡過程によって加速される機構を見出しました。これからもいろいろなシミュレーションを行い、非平衡現象における平衡状態の物性の役割や、非平衡過程同士の相関を見出していきたいと考えています。

 

液体側から固体を考える 

    氷やメタンハイドレートなどの結晶中では、対称的で美しい水素結合ネットワークが存在します。結晶の問題を考える時は、まずはその構造の特徴や安定性を考えることが重要です [ T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, Phys. Rev. B 93, 054118 (2016) ]。しかしながら、問題によっては、それとは異なる視点が必要になります。例えば、固液相転移を考える場合は、固体の安定性だけでなく、液体の安定性を考える必要があります。また、液相中の結晶表面への分子吸着を考える場合にも、固体表面における分子の状態だけでなく、液相中での分子の状態を考えて比較しなければなりません。固体に関する研究の多くで、その重要性にもかかわらず、共存する液体について軽視されているように感じています。私は、溶液化学の発想を持ち込むことで、固体についてより深い理解が得られると考えています。疎水物質の水和の理論でハイドレート表面への分子吸着が説明できることを示した J. Am. Chem. Soc. 137, 12079 (2015)や、水中の泡生成とメタンハイドレートの分解速度の関係を示した J. Phys. Chem. B 118, 1900 (2014)は、このような視点に基づいています。

 

情報をどのように残すか 

    MDシミュレーションを行うと、すべての粒子の座標と速度が結果として出力されます。これは、古典近似の範囲で、系についてのあらゆる情報が得られるということを意味します。そのままでは情報が多すぎて何もわからないので、粒子と時刻についての平均化を行います。この操作により、実験と比較できる分かりやすい量になりますが、同時に、系の情報の多くが失われてしまいます。例えば、質量の重みをかけて、すべての粒子、すべての時刻について粒子の速度の二乗の平均を取ってしまうと、それは温度の定数倍に過ぎないので、なにも面白いことはありません。情報の一部を残して平均化することで、多くのことがわかるようになります。時間変数を一つ残して平均化を行えば、時間相関関数が得られます。これをフーリエ変換すると、振動状態密度になります。こうすれば、「様々な振動数の運動があり、それらがどのように分布しているか」という系の大事な情報が得られます。

    計算方法を工夫すれば、より複雑なダイナミクスを解析することができます。J. Chem. Phys. 128, 154521 (2008) や J. Chem. Phys. 134, 184503 (2011)では、非線形応答理論と非平衡シミュレーションを活用して、時間変数一つと振動数変数を二つ残すことで「振動数ω1の運動が振動数ω3に緩和するまでの時間t2」といった情報を得る手法を開発しました。時間だけでなく、空間、運動の種類、粒子の種類などを基準に情報を分割処理することも有効な手段です。また、熱力学量を分割することもできます。界面への分子の吸着現象は、その分子のバルクの液体領域における溶媒和自由エネルギーと、界面領域における溶媒和自由エネルギーの差で特徴付けられます。溶媒和自由エネルギーをエネルギーとエントロピーに分け、さらにそれらを溶質-溶媒項と溶媒-溶媒項に分けることで、吸着現象の物理的起源を見つけだすことができます [ T. Yagasaki, S. Saito, and I. Ohmine, J. Phys. Chem. A 114, 12573 (2010), T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, J. Am. Chem. Soc. 137, 12079 (2015) ]。シミュレーション研究においては、やみくもに全てを積算するのではなく、大事な情報を残しながら、工夫してデータを処理することが肝要であると考えています。

    扱う系や現象によって、意味のある結果を得るための情報の残し方は変わります。単純な系ならば経験と直感でなんとかなりますが、多成分からなる複雑な系だと、とても難しくなります。最近、囲碁や将棋で、コンピュータがプロ棋士に勝つようになってきています。コンピュータは、時に、プロ棋士が全く想定していない手を打って勝つことがあるそうです。同様に、複雑な系では、問題の答えが科学者の想定の範囲外にある可能性があります。例えば、生体内では、ATP分解や光励起などによって得られたエネルギーによって様々な現象が多段階に引き起こされますが、そのエネルギーの緩和経路や付随する構造変化の様相はとても複雑です。このような場合に、科学者の経験と直感だけで緩和経路や反応座標を決めてしまうと、不要と考えて平均化してしまった情報(自由度)のなかに真の経路が存在していた、ということが起きてしまう恐れがあります。経験と直感だけでなく、コンピュータの助けを借りて、残すべき情報を系統的に決める方法が作れないものかと考えています。

 

業績リスト

論文

  • T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, "Formation of clathrate hydrates of water-soluble guest molecules", J. Phys. Chem. C 120, 21512 (2016). 

  • T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, “Anomalous thermodynamic properties of ice XVI and metastable hydrates”, Phys. Rev. B 93, 054118 (2016).

  • T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, “Mechanism of slow crystal growth of tetrahydrofuran clathrate hydrate”, J. Phys. Chem. C 120, 3305 (2016).
  • N. Nakamura, M. Matsumoto, T. Yagasaki, and H. Tanaka, “Thermodynamic stability of ice II and its hydrogen-disordered counterpart; Role of zero-point energy”, J. Phys. Chem. B 120, 1843 (2016).
  • T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, “Effects of thermodynamic inhibitors on the dissociation of methane hydrate: a molecular dynamics study”, Phys. Chem. Chem. Phys. 48, 32347 (2015).
  • M. Matsumoto, T. Yagasaki, and H. Tanaka, “Chiral ordering in supercooled liquid water and amorphous ice”, Phys. Rev. Lett. 115, 197801 (2015).
  • T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, “Adsorption mechanism of inhibitor and guest molecules on the surface of gas hydrates”, J. Am. Chem. Soc. 137, 12079 (2015).
  • T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, “Reply to “Comment on ‘Spontaneous liquid-liquid phase separation of water’””, Phys. Rev. E 91, 016302 (2015).
  • T. Yagasaki, M. Matsumoto, Y. Andoh, S. Okazaki, and H. Tanaka, “Dissociation of methane hydrate in aqueous NaCl solutions”, J. Phys. Chem. B 118, 11797 (2014).
  • T. Yagasaki, K. Himoto, T. Nakamura, M. Matsumoto, and H. Tanaka, “Structure, dynamics, and thermodynamic stability of high-pressure ices and clathrate hydrates”, Mol. Simul. 41, 868 (2014).
  • T. Yagasaki, M. Matsumoto, and H. Tanaka, “Spontaneous liquid-liquid phase separation of water”, Phys. Rev. E 89, 020301(R) (2014).
  • T. Yagasaki, M. Matsumoto, Y. Andoh, S. Okazaki, and H. Tanaka, “Effect of bubble formation on the dissociation of methane hydrate in water: A molecular dynamics study”, J. Phys. Chem. B 118, 1900 (2014).
  • T. Yagasaki and S. Saito, “Energy relaxation of intermolecular motions in supercooled water and ice: A molecular dynamics study”, J. Chem. Phys. 135, 244511 (2011).
  • T. Yagasaki and S. Saito, “A novel method for analyzing energy relaxation in condensed phases using nonequilibrium molecular dynamics simulations: Application to the energy relaxation of intermolecular motions in liquid water”, J. Chem. Phys. 134, 184503 (2011).
  • T. Yagasaki, S. Saito, and I. Ohmine, “Effects of nonadditive interactions on ion solvation at the water/vapor interface: A molecular dynamics study”, J. Phys. Chem. A 114, 12573 (2010).
  • T. Yagasaki, J. Ono and S. Saito, “Ultrafast energy relaxation and anisotropy decay of the librational motion in liquid water: A molecular dynamics study”, J. Chem. Phys. 131, 164511 (2009).
  • K. Mizuno, Y. Masuda, T. Yamamura, J. Kitamura, H. Ogata, I. Bako, Y. Tamai and T. Yagasaki, “Roles of the ether oxygen in hydration of Tetrahydrofuran studied by IR, NMR, and DFT calculation methods”, J. Phys. Chem. B 113, 906 (2009).
  • T. Yagasaki and S. Saito, “Ultrafast intermolecular dynamics of liquid water: A theoretical study on two-dimensional infrared spectroscopy”, J. Chem. Phys. 128, 154521 (2008).
  • T. Yagasaki, K. Iwahashi, S. Saito and I. Ohmine, “A theoretical study on anomalous temperature dependence of pKw of water”, J. Chem. Phys. 122, 144504 (2005).
  • T. Yagasaki, S. Saito and I. Ohmine, “A theoretical study on decomposition of formic acid in sub- and supercritical water”, J. Chem. Phys. 117, 7631 (2002).

 

欧文総説

  • T. Yagasaki and S. Saito, “Fluctuations and relaxation dynamics of liquid water revealed by linear and nonlinear spectroscopy”, Annl. Rev. Phys. Chem. 64, 55 (2013).
  • T. Yagasaki and S. Saito, “Molecular dynamics simulation of nonlinear spectroscopies of intermolecular motions in liquid water”, Acc. Chem. Res. 42, 1250 (2009).

 

邦文解説

  • 矢ケ崎琢磨, “包接水和物の分子シミュレーション”, 化学と工業 68, 808 (2015).

  • L. Hakimu, 矢ケ崎琢磨, 松本正和, 田中秀樹, “水素を含む高圧氷の構造と熱力学的安定性”, 高圧力の科学と技術, 24, 265 (2014).
  • 矢ケ崎琢磨松本正和田中秀樹 “燃える氷 メタンハイドレートが融けるしくみ -「京」コンピュータが解き明かす分解機構”, 月刊「化学」, 69, 29 (2014). (月刊「化学」10月号)
  • 矢ケ崎琢磨斎藤真司, “水の分子間運動の2次元赤外分光に関する理論計算”, 分子シミュレーション研究会会誌 アンサンブル 9, 65 (2007).

 

著書

  • 西信之, 佃達哉, 斉藤真司, 矢ケ崎琢磨, クラスターの科学 機能性ナノ構造体の創成”, 米田出版.